昭和53年08月21日 朝の御理解
御理解 第55節
「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年ありがとうなってくる。」
一年一年有難うなって行くような信心をさして貰わんならん。そういうこういう信心すれば、一年一年有難うなって行くという、そういう基礎的な信心をしっかりしておかなければいけないと思うですね。若い時にはまあ言うなら、あられぬ行も出来ます。言うなら表行なんかでも、神様をごうぐるようにして、どうぞおかげ下さいと言った様な、一生懸命の信心が出来ます。やはりそれでそのおかげを受けますけれども、そういうそういう信心では年をとるほど、とても出来なくなってまいります。
だからあただに有難うなろうというても難しい。若い時から。こういう信心を身に付けていけば、段々信心も深く広く、おかげも広く深く頂けて来る様になる。頂けてくるから、もういよいよ勿体ない、有難いという心が募ってくる。そういうおかげの頂けれる信心をしておかなければならない。ただ一生懸命参ったからおかげを頂いた。はあ水かぶってお願いしておかげを頂いたと言う様なのは、若い時は出来るけれども、年をとると出来なくなるともうおかげが、パタッと止まってしまうと言う様な信心ではいけん。
一年一年有難うなって行くような、信心でかならなきゃならないと。これは私はもうそれこそ寝ても覚めても、思わせて頂く事なんですけれども、私ぐらいな人間でも、私のような信心をさせて頂いたら、ここまでおかげは受けられると言う事です。もうそれこそ私ぐらいな人間でもと、これはもうまあここに集まって見える、もう誰よりも程度は低いと思うんです私の。
けれども信心のおかげで、ここまで有難くもならせて頂いたし、おかげも頂いてまいりますし、人にこうやってお話の一つもさせて頂ける様になり、皆さんもやはりそれでおかげを頂いて下さるようになったんです。だから私のような生き方を、本当に皆さんがマスターして、それを身を持って行じられるならば、いうなら私より以上のおかげがまた頂けると思うです。ですからみんなが本当に私のような信心をして下さったら。
私がしてきたような信心を、皆さんがして下さったらと、最近ではまあ言うなら様々な修行もさせて貰うたが、最近言われる、合楽理念なら合楽理念にあるところの内容を、本気でもちっと研究して下さったら、それを行の上に現してくださったら。先日の御大祭の後に、宮の陣の先生が残られて、秋永先生、綾部さん、文雄先生、高橋さん、まあ最後まで残られたから、最後まであの洋間でまあ信心問答を色々された中に、最近合楽が宗教以前の宗教と言った様な事を言っておるそうだけれども、これは。
教主様よりも教祖様よりも上の棚行くような行き方だと。それで高橋さんそれに対して「あんただん何ち応えたか」と私が言うんです。本当に合楽で言われる、宗教以前の宗教とも、金光教人全部がそれを信じ、それを感じれるようになったら、こんな誇らしいことはないのです。言うならキリスト教も仏教もね。ぐらいなことじゃない宗教以前の宗教という事は、そんなに素晴らしいことを内容に持っての表現なんだ。あのどげんあんた達は答えたち言うた。誰も答えじゃったね。
答えきらない、分からんのだ。私が宗教以前の宗教と、と言う事の説明。それで宮の陣の先生、あんたどげん思うのち聞いて見りゃよかった所へち。んにゃ私もそげん思うち言いなさるならば、大体宗教以前の宗教とは、こういう意味の事でこういう素晴らしいことなんですよと説明が出来てない。例えばもう修行はくのいち修行に極まった。ほんならくのいち修行の内容を話してみなさいと言うても、中々話は出来ない。
成程それが分かればそれだけでも、いわば御道の信心の修行がここに極まったというほどしの内容を持っておるのが、食物訓あの三つのあの御理解を、ようく噛んで含めるように説いておるから、もう一遍でも二辺でも、あそこを頂いて自分の物にそれをしたら、いうならば、私のようなおかげが受けられると言う事なんです。そんなに大変なことなんですよ、ここでいっておる事は。皆さんどうですか。くのいち修行と言う事は、どういう意味か説明が出来、自分でも分かっておるですか。
分かっておらなければ人にも伝えられないです。まあそういう例を言うなら、限りがないことですけれども、本当に私ぐらいなものでも、ここまでおかげが頂けるのだから、私の言うておる事を、みんなが聞いて下さるなら、おかげは頂かれるのに、ましてこれが教会の先生方が、私の言う事をはあやっぱ、大坪さんあんたが言うとが本当ですよと信じて下さるなら、その教会には生き生きとしたゴヒレイが輝こうものにという風に、こらもう寝ても覚めても思うことなんです。
どう言うわけに私の信心が、みんなに受けられんのだろうと言う様な事を、私夕べは菊栄会でしたから、文雄先生と正義先生が二人で、足もみにきてくれましたから、もう遅うまであのだいぶん遅かったでしょう、時計も見なかったけど、まあもんで貰いながら色々話をするけれども、何かこうカチッと来たような感じで、すうっと中に入っていかないような感じがするんですよ。はあもう合楽の信心者の、もう最高峰にある人達でも、まあだ私の言う事がようと分からんのだからなあと。
だからどう言う所にそういう入っていかんものがあるだろうかと、私は思わせて頂いたらもう寝ながらね、御心眼に頂く事が顔はこう、苦虫を噛み潰したような、頑固そうな顔でまあいうならば、私の言うておる事は絶対だ。間違いがないもう金光教の信心も、完璧の域に入った完璧になったじゃない。合楽理念が出来て以来、もうこれを極めていけば、完璧に向って進んでいくのだから絶対だ間違い無い。そういう表現がその、頑固な表情のように思うですね私の。私の絶対絶対といってることを申します。
年をとっていって頑固になるともう、永年の自分の人生体験からです。若い者にそげなこっじゃいかんこれが本当だぞと。やはり自分である意味での成功をした人達は、必ずそういう意味で頑固だと私は思う。一つの確信を持っているんです。そしてその人がです。白衣を着ている。そして白衣の上から紋付を着ている。いわゆるここの正奉仕の人達がしておるようなあの格好なんです。正奉仕なんです。もう何時もが私の場合なら正奉仕なんだ。もちろん色々意味がありましょう。
着けておる紋付の紋は、いうならこの梅鉢じゃなくて梅の紋。私の紋は梅鉢だった。それを神様がこの輪を取れと。これはそういう枠を取らんと大きくならないというて、こらもう数十年前に私の紋は、この梅の紋になった。だからこの枠を取ると言う事は、どう言う様な事かと言う事を、皆さんに日頃聞いておる。まあ言うなら我をとると言った様な事でしょう、簡単に言うなら。だから限りなく大きくなっていけれるんだと。そしてその人は今度はこんなふうに、丁度小学校の時にかろうていた雑嚢をかろうている。
この雑嚢をかろうとると言う事は、何時も勉強しておると言う事なんだ、私は雑嚢をかろうとる。そして左の手にこうもり傘を持っておる。そら頑丈そうなこうもり傘。そすと右の手には私のおうその頂いた感じは、携帯用ち言うかポケット用のあのサントリーの丸いウィスキーがありましょう。あれを狸と呼びますを右手に持っておる。左手にはこうもり傘をこう持っておる。そしてここにはあこりゃ中身を抜いたら素晴らしい刀だろうと言う様な刀をさして、扇子を横にこう差しておると言う様な出で立ちなんです。
もう誰が見ても、もうこげなけったいな格好は無かろうと思うぐらいな格好です。苦虫噛み潰したごたる頑固そうな顔して、その上に白衣を着て紋付を着て、そして刀をさして扇子をさして、そしてこう学校に行く時の、小学校のときのあの雑嚢をかろうて。左の手にはこうもり傘を持ち、右の手にはあの狸と呼ばれるサントリーのウィスキーをこう持っていると。これが私の今の姿であるとこういう。だからちょいと見てから、ちょいとまあけったいな、まあきちがいの様な感じですよね。
皆さん想像してみて下さいよ。雑嚢かろうてからこうもり傘持って、こっちにはサントリーのウィスキーを持って、腰には刀を差して扇子を差して、そういう姿なんです。だから私が言っておる事やらをちょっと聞いたら、もうちょっと気違い沙汰という風に。今まで金光教で言うたこともない様な事を、これが本当だこれからの金光教は、こうでなからなきゃならん。しかも絶対だと言う様な頑固な言い方をする。その姿はそういう私が、昨夜御心眼に頂いた、そういう姿でもあろうかと思うのです。
だから本気でほんなら合楽にです。昨日も話したことでしたけれども、夕べあの例えば鹿児島から来た先生が、一晩泊まりで研修に見えたですね。そん時に「あのねとにかく教会ぐるみに、合楽の信心頂かなければ、教会のゴヒレイは立ちませんよ」と。「そげなこつしよるなら信者は捕られる」と、その先生が言いました。信者どん連れて来よるなら。その先生が、あくる日一日居る間に、本当に見ると聞くとは大相違、本当に。一見は百聞にしかずと言う様な意味の事を言うて、感心して帰られましたけれども。
だからその私の持っておる一つ一つをね。例えば真剣なら真剣と言う事は、神様に向かって真剣と言う事でしょうし。合楽が日勝り、月勝りにおかげを頂いておるというのは、その肝心要のところの、しっかりした白扇のことでもありましょうし。ならそういう白扇的な末広のおかげを頂くのは、どこにその元があるか、どうしたならばそう言う風に真剣になれるか。左手に持っておるこうもり傘というのは、此の方の道は傘一本で開ける道と言われるように傘一本と言うのは、安心のおかげを頂くという事だが。
その安心のおかげを頂くためには、どういう修行をさせて頂かなければならないか。ある人は合楽はいうならば。狐狸のように表現する人もあります。はあ合楽に参って見なさいもうぽくぽくばいち。まるきりそのそういうふうな言い方をする人があります。またそういう事実もありますから。おなかの中にまあだ宿ったばっかりの子供に、名前付けてくれという人達が出てくるんです。そげなつは金光様の信心じゃないと言うても、神様はやっぱり教えて下さるんです。
花子と頂いたらはあ女ち言う事が分かる。太郎ち頂いたら、はあこれは息子ち言う事が分かるようにです、下さるんですばい。いやそう言う事をですね、あぁあそこは狐狸を使いよるじゃろと言った様な風に言われるのが、この狸のことじゃろ。けれども絶えず私は携帯用ですからね、何時も持っているから。いつもこうちびちびやっているわけです。だからもう何時も心の中はぽかぽかとして有難い。勿体ない恐れ多きと言った様な、有り難き勿体なき、恐れ多きを何時もこうやって携えておる。
そういう例えばそれを全部、一つの絵なら絵にするなら、こげなけったいな絵はなかろうと思うような状態を、ただちょっと聞いていただけであったら、とてもあげなもう変人と言うても、あげな変人なおらんと言うて、いうならば馬鹿扱いにする人もあるし。ちった足らんとじゃ無かじゃろかという風に表現する人もあるわけなんです。そら甘木の平田さんなんか、現実にそげん言いよりなさいましたですよ。「不思議にあん金光様の先生ちは、馬鹿んごたるとこが、どんどん助かるもんの」ち。
「ここん先生どんが、やっぱそうじゃろが」ち。私を前にして言いよりなさったですよ。だからただ見ただけには、そういう風に感じられるわけだけども、その身に着けておる、その一つ一つのものをです。なら傘一本なら傘一本のところでも、その傘一本が得られるためには、どういう信心すりゃ傘一本が得られるかと言う事をです。究明していったら、本当に素晴らしいことになる。成程いかにも頑固そうにあるけれども。いうならば合楽理念が絶対だと。
合楽理念の誕生は、いわゆる完璧に向って進んでいけれるんだ、間違いないと言う様な表現を致しますからです。そんなふうにも見えますけれども、これはもう益々持って有難うなって行く。これは良い意味の頑固ですよ確信ですから。と言う事にはいよいよ心は神様を信ずる働き、力というものは募っていくばかりでしょう。成程一年一年有難うなって行くと言う事は、そう言う事なんです。だからそういう信心の一つ一つをです、皆さんが身に着けていかなければ。
今申しましたように、最近言われる御道の信心は、宗教以前の宗教というが、本当に人に納得のいく様に説明が出来るか。最近ならくのいち修行に、もうこれに極まったと言われる。その極まったというその内容をです。いうならばですその食物訓、三つの御理解をようと極めさせて頂いたら、成程これに極まったと言う事になる。出来んなりでも曲りなりにでもです。あのくのいちという、あのお知らせを頂いた時にです。正確な女という字にはなっていなかった。
もうやっとかっと女と読まれるような状態であるけれども、神様がそれを、女の字として読んでくださる。それが本気で取り組まれたら。だからそれに取り組もうと思うたら、それを芯から知らなければいけないと言う事なんだよ。本当に、寝ても覚めても思うこと。私のようなものでも、ここまでおかげを頂いておるのだから、私の言う事を皆さんが本気で聞いて守って、おかげを頂かれたらこんなに有難い、いうならば。なんと申しますかね、天衣無縫のおかげと言おうか。
必要な物が必要に応じて頂かれる。人間の幸福の条件の全てが足ろうて来る程しの、おかげが頂ける程しの事を、今合楽では言われておるのですからそれを。言うならおかげをちょいと棚に上げといて本気でその信心を、さあ今日の御理解はどう頂いたか、又自分はどう感じたかと言った様な所を検討して行く様な生き方にならなければ、合楽に浸っておっても、いうならば一年一年有難うなると言う様な事にはならんと言う事ですよね。
どうぞ。